板木を語る-板木にまつわる記憶-(板本・板木をめぐる研究集会) Part2

板木・板本をめぐる研究集会」初日の2コマ目は,京都市下京区にある仏教関係の出版社・書店である「法蔵館」の五代目西村七兵衛氏と,「藤井文政堂」の六代目山城屋佐兵衛氏による板木にまつわるご講演でした。

立命館アート・リサーチセンターで開催されていた「現代に伝わる板木展」では法蔵館の板木奈良大学所蔵の藤井文政堂旧蔵の板木の実物をみることができました。小さな展示会場とはいえ,これほどまとまって板木を見るのは宝蔵院を訪問した時以来です(黄檗山宝蔵院では現在でも職人さんが一切経の板木でお経を摺られています)。法蔵館の板木蔵の写真がないかと検索したところ,2010年におこなわれた蔵の調査記事がみつかりました。

展示解説も詳しくておもしろかったのですが,今回さらにご講演で,その板木を用いて実際に板本を出版していた書肆の店主からお話をうかがえるという貴重な機会でした。

奈良大学の永井先生のお話にもありましたが,残念ながら現存している板木はほんの一部とのこと。もしそうなら,オーラルヒストリーというのかどうかわかりませんが,今回の講師のように板木の記憶のある書肆の方のお話を聞きとってアーカイブしておくことは非常に重要なことなのではないかと思います。


演題:「板木を語る-板木にまつわる記憶-」(板木・板本をめぐる研究集会)
講師: 西村七兵衛氏 (株式会社法蔵館)
講師: 山城屋佐兵衛氏 (藤井文政堂)
日時: 2012年2月4日(土) 15:30-17:30
場所: 立命館大学アート・リサーチセンター 多目的ルーム
立命館大学グローバルCOEプログラム 日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点

西村七兵衛氏 (株式会社法蔵館)

  • 法蔵館の歩み
  • 法蔵館には現在にも板木蔵がある
  • 摺り師が板木蔵の中で実際に板本を摺っていたのを覚えている
  • 板木蔵は地面より少し下に床があって湿度が高めになっている?
  • 西本願寺の北側にあった本圀寺の蔵に預けていた板木を法隆寺に寄贈したことがあり,平成22年に確認したところ確かに法隆寺で保管していただいていた
  • 小学生時代に板木をわって薪にしていた。当時,蔵の2階部分まであふれかえっていた板木が1階だけで収まるようになるほどかなりの板木を潰した
  • 板木は上質の桜なので火持ちもよく,燃えた残りも炭のかわりに使っていた
  • 重要な板木をわってしまったこともあるが当時はまだ彫師がいてすぐに複製をつくることもできた

山城屋佐兵衛氏 (藤井文政堂)

  • 昭和20年代ぐらいまでは板木を使って摺っていた
  • 現在も版画やお菓子のシールなど木版が使われているが色刷りが多い
  • 当時の本屋が扱っていたのは墨摺り本が原則で,摺り屋も墨刷り専門だった
  • 最後に板を摺った記憶は昭和32年ぐらい
  • 六条若宮東中筋の路地の奥にあった板摺り屋さんに自転車で板木をはこんだ
  • 運ぶ度に体中が真っ黒になるので夏によく運んでいた
  • 家賃が安く,板摺りの道具や紙を置いておくのに場所がいるために突き当りで場所が少し広い路地の一番奥に職人がいるのが京都の定番だった
  • 板摺り屋さんの軒先には文政堂以外の板木も山積みになっていた
  • 玄関をくぐるとものすごい臭いがたちこめていた。奈良でつくられた割れ墨を水に入れた甕に入れて何日もねかすと墨に含まれた膠が腐り,その分離した上澄みを摺りに使っていたが,それが臭いの原因。[参照: 腐れ膠墨(腐れ墨)を作ってみました | 絵具屋三吉 画材通信]
  • 現在も摺っている黄檗山宝蔵院では練り墨を使用しており,臭いも全くせずなめらからしい
  • 何回も摺って板木が摩耗していても墨付けの濃淡を調整することで同じ色で綺麗な仕上がりにすることができると自慢していた。ただその職人曰く,昔はもっとよい職人がいたとのこと。
  • もともとは板摺りさんは自宅で摺ることはなく,店の板木小屋に出向いて依頼された板木を摺っていたらしい。日当ではなく一枚すって何銭かという出来高制で,ごはんの梅干しだけ入ったお弁当を持ってさえいけば,おかずはお店の人が出してくれたらしい
  • 戦前は仏書に関しては木版はかなり摺られていた流通していた。板本は江戸時代で廃れたのではなく明治時代でも需要があった。仏教関係の学校のテキストは和本。もちろん活版におされていたのは事実
  • 決定的に和本が摺られなくなった理由は戦時中の紙の統制。戦後になってから和紙というものがあまりつくられなくなり,値段が高騰していくなかで墨刷りの本に和紙を使う余裕がなくなった。細々と何年に一度ぐらいの頻度では作成されていたかもしれないがほとんどなくなってしまった
  • 明治時代は大量の板本をつくっていた時代では?
  • 明治政府の官報は木版で京都の平楽寺書店が毎日摺っていた
  • 明治政府の便箋や地検のための書類なども初期は木版刷り
  • 学校制度が確立して教科書の需要がでてきたが,初期のものは教科書・副読本も木版
  • 廃仏毀釈後の明治10年以降にも真宗の赤本(布教本)が大量に木版で摺られていた
  • 活字に変わっていったのは明治20年代後半で明治30年頃から急激に木版は衰退。出版社も大手は東京にいってしまった
  • 藤井文政堂では明治40年代には板本を少しはだしていたが,大正2年に開板した本が藤井文政堂では最後の板本
  • 配布資料1: 美濃屋松蔵の広告。名古屋の板摺りさんの所から偶然見つかった板木板の販売広告で珍しい。
  • 配布資料2・3: 出版の許可を得るために二条城西奉行所に提出した願い出本(見本本)。ただし許可したという資料もないし判子もおされていない。いろいろ探してみたが文政堂の資料には許可されたことを示すものがなかった。むかし大阪の中尾松泉堂さんから聞いた話では,船で大阪から出向して枚方で荷を下ろして判子屋で判子を押してもらい京都で許可をもらったことにしたことがったらしいので出版許可の申請はそれほど厳密にされていなかったのかもしれない。
  • 配布資料5: 板木売買文書。当時は出版した本を自分の書店だけは捌けなかったので書林仲間を通して販売してもらう必要があった。また板木を書林仲間で売買することが当然だった。
  • 資料紹介: 板下本。出版するためには板下が必要で板下は残らないのが定説だが,実物の板下がたまたまのこったものもある
  • 配布資料4: 明治15年に八坂神社に献本した証。下京は八坂神社,上京は北野天満宮の御文庫に献本するのが慣わしだった。
  • 配布資料6・7: 天明三年京都増田源兵衛文書「両経仕立売立引工定帳」。お経の出版や板木の売買で増田源兵衛がどれだけ儲けたかがわかる文書
  • 中野三敏氏や橋口侯之介氏の本でもふれられているが「書物はおあずかりものとして次の世代につたえてく」「江戸人の目で江戸を理解しないといけない」というのが重要
  • これまで板木はそういうものからはずれた存在だったが今後の研究に期待している。
  • 板木はほぼ亡くなってしまったが,何もしなければ和本も同じようになってしまうのではないかという危機感がある

質疑応答

Q: 藤井文政堂の板木の流出について教えてほしい
A: 河原町通りが拡張のためにとられてしまい蔵がなくなってしまった。別の場所に急遽新しくた蔵をたてたが入りきらず板木を一時的に別の場所に置いていたが,知らない間にたきもんやはんこやに売られてしまったのか詳細はわからない。板木はその程度のものとしか見られていなかった。出版屋は酒屋とは違って伝統産業ではない。新版ができれば古い板木は無用の長物。再利用できないものは必要になくなってしまえば捨ててしまうのが現状。永井先生が研究されなかったらゼロになってしまっていたかもしれない。